古くから日本では「言霊（ことだま）」という考え方があって，言葉（ことば）には霊的な力が宿っていると考えられてきた．古代の「やまとことば」では「言（こと）」と「事（こと）」が同一の概念だったのも同じ思想に由来する．そんな中で，「言葉」は「こと」の「端」・「枝葉」でしかないが，「こと」自体を知るには「言の葉」が手掛かりにはなる．万葉集に
「志貴島の日本（やまと）の国は事靈の佑（さき）はふ國ぞ福（さき）くありとぞ」
という歌が載っている．言魂の力によって幸せがもたらされる「言霊の幸ふ」国では「良い言葉には良い言霊が宿り，不吉な言葉を発すると凶事が起こる」のである．そんな時代に，自分の意志をはっきりと声に出して言うことは「言挙げ」と呼ばれ，良くも悪しくも特別な意味合いがあった．

同じ万葉集には以下のような歌もある．

「葦原の 水穂の國は 神ながら 言擧げせぬ國 しかれども 言擧げぞわがする 言幸く まさきくませとつつみなく さきくいまさば 荒磯波 ありても 見むと 百重波 千重波にしき 言擧げす吾は 言擧げす吾は」
そのような国にも時は流れ，生命科学の時代と言われる21世紀に突入した．この間，ポストゲノム時代に入って生命科学の様相は一変した．斬新な方法論が次々と出現し，耳慣れない言葉が飛び交っている．まさに，「魑魅魍魎（ちみもうりょう）」とでも言えるような，時代の最先端をゆく「言霊」が飛び交っているのである．ひとつの言葉の意味がわからないだけで話の内容が全く理解できなくなる．これでは困るので新しい用語に出会うたびに，それを簡潔に解説したメモを蓄積する習慣をつけているのだが，この「言霊集」は「非理解」という悪霊を追い払うのに実に役に立つ．

一人で楽しむのも「もったいない」ので羊土社という21世紀のバイオを担う出版社を通じて「言挙げ」することにした．

筆者は以前，広島大学の緒方宣邦教授とともに，遺伝子工学関連の基本的な用語の解説をまとめた「遺伝子工学キーワードブック」を，同じく羊土社より上梓した．お陰様で随分と好評を得させていただいたが，そこに載せた「言の葉」は歴史的価値のある「遺伝子工学時代」の用語であって，執筆時には存在しなかった「ポストゲノム」用語は当然ながら掲載されていない．それ以降，新しく生まれてきた用語をコツコツと書き貯めていたら，かなりの分量となったので，同じシリーズの一冊として上梓することにした次第である．掲載する用語の重複は極力避けたが，再度取り上げる必要があると判断した少数の用語については最新の情報を取り入れた解説を載せた．両書ともども愛読していただければ幸いである．

執筆に際しては「わかりやすい」と「引きやすい」の両方を心がけた．「わかりやすい」を実現するため，文章はできるだけ簡潔にするとともに用語の内容を理解しやすいように図をふんだんに使って解説した．「引きやすい」を実現するため，まず和文用語を五十音順にし，そのあとで英文用語をアルファベット順に配置し，最後に数字が頭に付く用語を小さい数値から順に並べた．さらに巻末に和文と英文に分けた索引をつけた．これにより頻出する用語が出現するページが一覧できるようにするとともに，主たる解説のあるページは太字にした．説明が簡略な用語，あるいはひとまとめに解説したほうが理解しやすい用語は個別には項目として挙げず，索引によって用語検索できるようにした．巻末には略語一覧や英語の発音記号など役立つ情報を付録としてつけた．これらが読者のお役に立てば幸いである．

本書を出版するにあたり大変お世話になった羊土社編集部の庄子美紀さんに感謝致したい．雑然としていた原稿が彼女の手腕により次々と整然とした形で本に仕上がってゆくさまは見事というほかは無い．ここに深く感謝いたしたい．また本書の企画全般にわたりご助力いただいた一戸裕子社長をはじめとした羊土社の方々にも改めて謝意を表したい．

2007年 2月

野島 博