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- 実験医学増刊 Vol.42 No.7 大規模データ・AIが切り拓く脳神経科学
商品情報
内容
精神・神経疾患の多様な症状を,脳画像データベースと深層学習により定量し,「主観的な尺度による診断」から次の段階へ.神経活動の大規模イメージング,数理解析からわかった脳「領域」間相互作用の新知見も必見!
序文
はじめに
昔も今も変わらぬ神経科学者の夢は,脳を構成するすべての神経細胞の活動を記録し,そこに含まれる情報を完全に解読することである.解読した情報を,最終的に動物やロボットにインストールすることで,生物の応答や行動出力を完全に再現できれば,われわれは脳のしくみについて一定の理解にまで到達したといえるだろう.ひと昔前は,このような目標は純粋な夢として語られることが多かったが,神経活動記録デバイスやセンサーの時空間精度の向上,コンピューターの計算パワー強化,光遺伝学的手法の開発など最近10 年間の技術革新により,到達可能なゴールとして議論されるようになってきている.さらに,得られた脳の大規模データやそれを扱う技術にもとづき,脳の疾患メカニズムの理解が深化し,また脳の情報処理を模した次世代型の人工知能(AI)開発に向けた試みもはじまっている.このように脳研究は,これまでにも増してエキサイティングな時期を迎えているといえる.本増刊号を読んで,特に若い学生や研究者の方に,大きな変曲点を迎えた脳研究が見せるダイナミックなうねりを感じていただけると幸いである.
1. コネクトームデータとブレインワイドの神経活動データの融合
ヒト脳であれば約1,000 億個の神経細胞と同数のグリア細胞からなり,それぞれの神経細胞が約1 万個のシナプス結合をもつ.さらには,個々の神経細胞が独立した情報を担うヘテロな機能素子であるという点で,脳は他臓器と比べてユニークであり,かつ実験アプローチが難しい.従来の研究では,各研究者が技術的にアプローチしやすい特定の神経細胞,シナプス,回路に特化した解析が主流であった.このような状況を打破すべく,脳神経回路全体の構造と機能を俯瞰して捉えようとする試みがコネクトーム(connectome)プロジェクトである.オバマ大統領時代の2013 年にアメリカで開始されたブレイン・イニシアティブは,2025 年を目処に,脳神経回路の全構造をシナプス結合レベルで解明し作動原理を理解することをめざして,まずショウジョウバエとマウスを対象に全脳神経回路解明を行っている.これまでに,約10 万個の神経細胞で脳が構成されるショウジョウバエでコネクトーム解析が完了し,2022 年にメス脳の全コネクトーム論文が公表された.ジャネリア研究所およびプリンストン大学から提供されているショウジョウバエ脳の完全コネクトームデータと解析プラットホームは非常にパワフルであり,脳内の特定神経細胞やローカル回路を起点として,ブレインワイドの回路・機能・行動研究へと容易に発展させることができる.約1 億個の神経細胞から成るマウス脳については,大脳皮質の一部や小脳などの大まかなコネクトームデータが公表されている.本邦でもマーモセット脳前頭葉の大まかな回路構造を世界に先駆けて公表するなど大きな成果をあげている(渡我部ら,第4章-3).
コネクトームデータは,ゲノムでいえば遺伝子情報の解読まで辿り着いたステージといえる.現在,ゲノム研究の中心は,エピジェネティック修飾や3D 構造変動を含む時空間レベルのダイナミクス制御へと移っている.同様に,コネクトームの次のステージは,回路構造にもとづくダイナミクスや制御の解明へと移行することは必然といえる.サブミリ秒スケールで発火する神経活動は,神経細胞の活動パターン自体が膨大な情報量をもつのに加えて,神経細胞間の同期性や集合性など集団レベルの時空間情報が乗ってくる.そのうえにコネクトームから得られる局所(ローカル)回路やシナプス結合情報も入るので,活動記録の時空間精度が上がるにともない,扱うデータ量が爆発的に増えていく.脳がコードする情報を解読するためには,このようなビッグデータを正確に取り扱い,そのなかから意味のある情報を抽出する技術がカギとなる〔第1章-1(平),第1章-2(木村),第1章-3(北西),第1章-4(髙野ら),第1章-5(辻ら),第1章-9(細川ら),および第3章を参照〕.最終的に解読した情報を動物の脳内にインストールするためには,複雑な3D 構造をとる脳のなかの特定神経細胞をミリ秒レベルの時間枠でシークエンス状に発火させる技術が必要であり,そのためにホログラフィック技術などを用いた試みがはじまっている(和氣ら,第1章-11).
時空間精度だけではなく,研究者が観察できる脳領域も大きく拡大し,全脳レベルの活動計測も夢ではなくなっている.ブレインワイドの神経活動データとコネクトームデータとを合わせることにより,脳領域間をつなぐ神経回路の機能,中枢回路と末梢回路の機能的相互作用,異なる感覚受容野を統合するマルチセンシング機構など,グローバルな回路情報と脳機能との因果関係も理解できるようになってきた〔第1章-2(木村),第1章-7(日吉・渡部),第3章-1(川島),第3章-4(齋藤ら)を参照〕.当然ながら,神経回路は脳だけに留まらず,体全体に張り巡らされていることから,脳以外の臓器との相互作用も研究対象となってきている.近年の脳RNA-seq データから,脳内に特定の免疫細胞が常在もしくは侵入することが明確となり,精神神経疾患との関連も見えつつある(田中ら,第1章-6).また,脳と腸,脳と心臓など,神経- 内臓連関における双方向性の制御もわかってきている(佐々木,第1章-8).ヒト脳組織を用いた生理学研究は,一部の特例を除き本邦では依然として難しい状況であるが,iPS 細胞技術やオルガノイドなどを用いて一部の神経回路機能の再現が可能となってきている.また,ヒトゲノム情報は,技術的な問題により未解読であったセントロメアやテロメア付近の配列も整備され,ほぼ完全な塩基情報が提供された(鈴木ら,第1章-10).パーソナルゲノム解読に要するコストや時間も大きく低減しており,疾患ゲノム情報とあわせて,ヒト特有の神経機能を生み出す脳神経回路研究にも今後の大きな進展が期待できる.
文責:榎本和生
2. 大規模データ・AI 解析から見えてきた精神・神経疾患の新しい生物学的なサブタイプ
精神・神経疾患においては,1 人ひとりの患者の症候・表現型は多様であり,一定の症候・表現型の組合わせで定義された症候群のなかには,生物学的異種性が必然的に生じる.したがって病因・病態の解明のためには,生物学的なサブタイプを同定し,そのサブタイプごとに分子細胞生物学的な解析を進めていく必要がある.また生物学的異種性を生じる要因として,ゲノム素因だけでなく,ライフステージ上のさまざまな社会・環境要因からの影響やそれへの応答の累積が個体の脳回路を変化させ,疾患への脆弱性を形成することを考慮する必要もある.精神・神経疾患を解明するうえでのこうした本質的な困難性は従来から指摘されていたが,さまざまな技術革新を待つ必要があった.
まず,生物学的サブタイプの同定のためには,数千例以上の規模の生物学的データの取得が必要である.これはゲノムデータについて先行して実現したが,精神疾患においてはcommonvariant のオッズ比がきわめて小さい一方で,rare variant で説明できるのは疾患母集団のごくわずかであることが判明してきた.そのため,脳画像などの中間表現型を用いたサブタイピングへの要請が高まった.脳画像のうち最もよく研究に用いられてきたのがMRI であり,これを多施設・国際共同で大規模に集積する試みが国内外ではじまっていった.異なるスキャナーで撮像されたデータを用いた解析を,どのように撮像プロトコールの統一や数理科学的なハーモナイゼーションによって達成するかの取り組みが米国Human Connectome Project や日本の国際脳プロジェクトなどで展開された〔第2章-1(小池),第4章-2(麻生・林)〕.また,国際的なオープンサイエンスの流れで,これらのデータベースを撮像時の段階から被験者に同意を得て,顔情報などを削除して個人が同定できないようにしてから非制限公開する努力も進められている(田中,第4章-1).
次に,実際に数千例規模のデータを解析すると,これまで知られていなかった精神疾患の新しいバイオタイプの同定の成功例が出てきた.一例をあげると,日本の革新脳・国際脳プロジェクトで見出された,統合失調症における淡蒼球体積増大所見がある.こうして得られた,エビデンスレベルがロバストなバイオマーカーを起点としたリバーストランスレーショナルリサーチが日本で先駆的に展開されている.ヒト疾患でみられた淡蒼球体積増大というバイオタイプをマウスin vivo MRI で検出しつつ,社会環境因子の負荷を加味して,その分子・細胞レベルの病態をAI による行動データ解析を組合わせて解明しようとする動きである(柳下,第2章-5).さらには,こうした脳画像を起点として,分子・ゲノムなどの多階層のデータベースを構築し,数理解析にもち込もうとする計画(小池,第2章-1)や,MRI を中心とした多階層データベースをヒトとマウスなどの実験動物で相同性のある形で作成し,双方向的トランスレーショナル研究を加速しようとする動きもはじまっている(柳下,第2章-5).
ヒトの精神・行動や精神疾患における症状の定量化は,これまで心理学的な尺度(自己記入式および他者評価式)によって行うことがゴールドスタンダードであった.数千人規模の思春期コホート研究の縦断データが蓄積してきたことにより,これを深層学習により解析すると,これまでに知られていなかったクラスターとして,自己記入式(主観)得点と他者(養育者)評価得点の差が大きいサブグループが見出され,自傷や希死念慮などの深刻な精神保健アウトカムと関連していた.このように大規模な心理・行動の縦断データとAI 技術の発展は,発達心理学や発達精神病理学に新たな展開をもたらすものと期待される(長岡ら,第2章-3).
文責:笠井清登
おわりに
本特集では,大規模データの蓄積と技術革新の相乗効果により,精神・神経疾患の新しい生物学的なサブタイプの同定が現実的となり,病因・病態の解明にゲームチェンジが生じつつあることを紹介させていただく.基礎神経科学者と臨床医学者と数理科学者の相互「翻訳(トランスレーショナル)」体制を着実に構築してきた日本の脳科学研究が,「翻訳(トランスレーショナル)」研究で強みを発揮する時代がついに到来したのだと捉えている.
<著者プロフィール>
榎本和生:東京大学大学院理学系研究科・教授,東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国
際研究機構・副機構長.1997 年,東京大学大学院薬学系研究科博士課程修了.東京都臨床医学総合研究
所・研究員,カリフォルニア大学サンフランシスコ校・客員研究員,国立遺伝学研究所・独立准教授,
大阪バイオサイエンス研究所・研究部長を経て,2013 年より東京大学大学院理学系研究科教授.’15 年よ
り新学術領域研究「スクラップ&ビルドによる脳機能の動的制御」領域代表を務め,’17 年より東京大学
国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)副機構長.脳が心や個性を生み
出す仕組みに興味がある.
笠井清登:1995 年,東京大学医学部卒業,東京大学医学部附属病院,国立精神神経センターなどで精神
科臨床の研鑽を積む.2000 ~ ’02 年,ハーバード大学医学部精神科客員助手,’08 年~,現職(東京大学
大学院医学系研究科精神医学分野教授).’17 年~東京大学ニューロインテリジェンス国際研究機構
(IRCN)主任研究者を併任.統合失調症などの精神疾患の脳病態をMRI やEEG などで明らかにしてき
た.ヒト・精神疾患MRI データベースの構築や国際連携を進めている.
目次
第1章 実験動物を中⼼とした基礎研究
1.大規模2光子カルシウムイメージング【平 理一郎】
2.線虫C.エレガンスを用いた先端的オミクス技術の統合による基礎脳科学の変革【木村幸太郎】
3.生体脳における大規模電気生理神経活動記録【北西卓磨】
4.近接標識法と膨張顕微鏡法が解明するシナプスのすがた【髙野哲也,曽我部 拓,柚﨑通介】
5.深層学習が切り開く行動神経学の新地平【辻󠄀 真人,陣駒大輔,西塚悠人,榎本和生】
6.神経回路がどのように病態を制御するか,主にゲートウェイ反射を例に【田中宏樹,村上 薫,長谷部理恵,村上正晃】
7.感覚信号に伴う情動価の生成と変容を担う神経回路機構【日吉加菜映,渡部文子】
8.内受容感覚を伝達する経路と脳情報処理【佐々木拓哉】
9.記憶,シナプス,液-液相分離【細川智永,實吉岳郎,林 康紀】
10.大規模データから明らかになる,大脳皮質におけるヒト独自の細胞構成とその発生メカニズム【鈴木郁夫,天野麟太郎,榎本和生】
11.ホログラフィック顕微鏡による多細胞回路動態の計測と操作【和氣弘明,加藤大輔,竹田育子】
第2章 臨床につながるヒトへの応⽤研究
1.脳画像研究を起点とした精神疾患多階層データベース【小池進介】
2.神経画像が導く神経変性疾患研究のパラダイムシフト【大井由貴,花川 隆】
3.深層学習を用いた思春期の心理行動の病理と発達の理解【長岡大樹,安藤俊太郎,笠井清登】
4.fMRIニューロフィードバックの最新動向【中村啓信,髙橋英彦】
5.大規模データ・AI活用による精神疾患トランスレーショナル・リサーチの展望【柳下 祥】
6.ブレイン・マシン・インターフェース【牛場潤一,岩間清太朗】
第3章 AI・数理モデルを活⽤した技術
1.スパコンに頼らない大規模データ解析技術と全脳神経活動イメージングの最前線【川島尚之】
2.エネルギー地形解析と神経遷移ダイナミクス【渡部喬光】
3.非線形科学の脳神経解析への応用【信川 創,平野羊嗣,田村俊介,岡本有司,水口成寛,牛場潤一,岩間清太朗,合原一幸】
4.大規模イメージングと数理解析の融合に向けて【齋藤喜仁,大迫優真,村山正宜】
第4章 ⼤規模データベースの最新状況
1.脳研究における大規模データベース【田中沙織】
2.HCP, UK Biobank, ABCDなど海外の脳MRIデータベースによる成果と課題【麻生俊彦,林 拓也】
3.マーモセット脳画像データベース【渡我部昭哉,下郡智美,Henrik Skibbe】
4.ヒト脳のオミクスデータベース【内藤龍彦,岡田随象】
5.マウスMRIの進歩とデータベース化の動向【釣木澤朋和,高堂裕平】
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書籍情報
- ISBN:9784758104180
- ページ数:199頁
- 書籍発行日:2024年4月
- 電子版発売日:2024年5月2日
- 判:B5判
- 種別:eBook版 → 詳細はこちら
- 同時利用可能端末数:3
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