序

前世紀中頃にDNAの二重らせん構造が明らかになって以降，タンパク質や核酸など，実にさまざまな生体分子の立体構造が明らかにされてきた．生体分子の立体構造解明に多大な精力が注がれているのは，それら分子の有する機能の発現機構，あるいは機能の制御機構などについての理解を深めることができると考えられているからである．これまでに決定された数多くの立体構造は，時にそれら分子の有する機能に関する重要な手がかりを与え，時に分子の制御法を人類にもたらし，また機能美の極致ともいえるそれらのフォルム故か，時に人々を魅了すらしてきた．しかしながら，立体構造が決定されればそれだけでその分子の有する機能やその制御法が直ちにすべて明らかになる，という状況ではまだない．構造バイオインフォマティクス分野のさまざまなリソースは，必ずしも機能推定が容易ではない場合でも，立体構造データをもとに，あるいは利用し，少しでも生体分子の機能についての理解を深めるための方途となりうる．

近年，生体分子に関する利用可能な立体構造データが急増している．これには，二つの互いに関連する大きな流れが関係している．一つは，解析技術の発展による「決定された立体構造データの増加」であり，もう一つは，深層学習モデルの発達と立体構造データの蓄積を背景とした，多くのタンパク質に対する「高精度の予測構造モデルの出現」である．こうした大量の立体構造データの出現は，それらデータの利用による生体分子の機能解明の機会を拡大させるとともに，予測構造モデルの計算法のタンパク質の設計などへの応用も進められ，構造バイオインフォマティクス分野の研究の重要性を増大させている．本年のノーベル化学賞のタンパク質の設計と立体構造予測の進展に対する授与は，その象徴ともいえる出来事である．

こうした状況を背景に，これまでにさまざまなデータベースや利便性の高い数々のツールが開発され，普及が進んでいる．本書は，ライフサイエンスの，あるいはそれに限らない幅広い分野において，構造バイオインフォマティクスに関心のある研究者や学生に向け企画されたものである．時代の趨すう勢せいとして，生体分子の立体構造に関する情報の蓄積は今後さらに加速し，またそれらの情報を解析する手立てもより豊富になるであろう．本書にはおさまりきらない研究やデータベース，手法なども多々あるが，本書が構造バイオインフォマティクスの世界を旅する読者のガイドとなり，読者が分子の立体構造の観点から自身の研究をさらに発展させるきっかけとなれば幸いである．

最後に，本書の企画に賛同し，貴重な時間を割いてご執筆いただいた先生方，本書に携わる機会をいただき，また担当いただいた羊土社の方々に深甚の謝意を表すしだいである．

2024年10月

富井健太郎