序　自利利他円満

大きな物語が消滅し，共同性が衰退しつつある社会環境の中にあって，精神を病み， 生きづらさを感じる人達が増えている．それに対し，日本の病院中心の精神医療は敷 居が高かった．入りにくく，入ったら出にくい．

そこで，漂流する現代社会のとりつく島，すがる藁としての精神科クリニックへの 期待が高まっている．クリニックの数は増えたが，どのような患者さんにどのような 外来精神医療を提供したらお互いの幸せにつながるのか検討が必要だ．

本書を手に取っておられるのは，これから独立開業を考えている精神科医か，その 関係者の方が多いであろう．本巻は，本シリーズの中でも設立，経営という中核部分 を，各執筆者の臨床実践知に基づき具体的にお示ししたものである．

この数十年，先達たちは独自に多様な開業形態を開発し，治療を展開してこられた． いわば血と汗の結晶である．一部，企業秘密というべき部分もあるかと思うが，心よ く御開示いただけた．

独立開業でまず大事なのは，患者さんに選ばれなければならないということである． 開業してから，こんなはずじゃなかったと思っても後悔先に立たず．武士は食わねど 高楊枝と霞を食って生きるにも程がある．病悩の過半が経済問題であることを痛感す るだろう．

　蟹は甲羅に似せて穴を掘る．自分は何ができて何ができないのか，自分の背中は白 なのか黒なのか，自分ではわからない．人の振りみて我が振り直せである．

開業の基本は，治療の場と関係性の提供という認識である．立地は立ち位置，それ ぞれの背景を持つ医者・患者が抵抗なく出会える場．治療構造を明示するサインの対 象は無意識を含む体感．間口は広くするか狭くするか．入口はバリアフリーか框 かまちをつけるか．奥行きは．懐は浅いか深いか．照明はどの程度か．明る過ぎると無意識は曇 る．椅子の固さは．座り心地は退行の程度を決める．スタッフの関与は．二者関係か 三者関係か．エディプス機制を刺激するかどうか．実在の外部構造即内的治療構造で ある．身の置き所は投影，転移の働く関係性の場である．特に，はやるための前提は 陽性転移．

さらに，治療をラカンのいうクッションの縫い目の言語的綴じ直しと考えると，上 糸下糸，縦糸横糸をほどいた時，中味の綿が流動化して漏れ出さないようコンテイン 機能を保証するコンテナの設計，運営という視点は重要だ．お互いのために．

　実際に開業してみると，すぐに理想と現実のギャップに直面する．「あちら立てれば， こちら立たず．こちら立てれば，あちら立たず．」生身の存在の宿命だ．武道の達人 は「あちらを立てても，こちらも立つ．こちらを立てても，あちらも立つ．」を目指 すという．継続の極意だろう．自利利他円満．

医者の倫理として，制度化された医者-患者関係をホールディングしながら，常にそれを否定される願望をもつという自己矛盾的，曲芸的生き方が要求される．

本書は，開業を目指す精神科医の指南本という性格がある反面，開業現実の暴露本 でもある．気軽な稼業と思いきや，涼しい顔で泳ぐ水鳥の水面下での必死の水かきは 結構大変だと思われたら，転ばぬ先の杖としての価値があろう．

文字通り浅学非才，田舎医者の小医が編集の任を命ぜられた時，正直不安であった． しかし，各執筆者の日常実践体験に裏づけられた真実の記録は，必ずや次に続く皆様 方のお役に立つであろう．寄稿された方々の御協力に深謝する．

それでは，読者諸兄姉の今後の御発展を祈念して，グッドラック！

2015 年10 月

松㟢 博光