はじめに

現実の患者さんの経過は決して教科書どおりにはいきません．快方に向かうのは一本道ではなく，入り込むと死に至るような枝道もあります．治療経過は順調だったのに，思わぬ事で足を掬われたりもするのは多くの臨床医が経験していることです．枝道に入りそうな危険を予測し，予防のために先手を打つ臨床力は，経験によって培われる部分が多いので，患者さんが若手の医師よりもベテランに見てほしいと思うのも当然でしょう．そして実際に経験できることには限りがあるのも間違いありません．しかし，患者さんを直接診ないでも経験を積むことができます．それが病理解剖から学ぶという方法です．病理解剖の目的を単純な死因解明と考えている人たちが少なからずいます．しかし病理解剖は犯罪を立証するための法医解剖とは異なります．むしろ症例が経過中の何時，なぜ死に至る枝道に入り込んだのか，それを防ぐ手立てはなかったのかを探る，言い換えれば医療の検証を目的としています．一つの症例を詳細に検討することによって臨床力が養われていきます．それゆえ，一つの剖検例から皆で学ぶために，臨床病理カンファレンス（CPC）が開催されています．CPCが臨床研修の中で重要な履修項目に挙げられているのもそのためです．診療の世界で「たら」「れば」に意味はないと言われますが，病理解剖を通じて「たら」「れば」を考え，反省から学ぶことこそ，医師として実力をつけるためだけで

なく，医療の発展にもつながるというわけです．本書の第Ⅱ章では17の剖検症例について，臨床経過と剖検所見を呈示しました．読み進むと臨床上の問題点として示される「謎」が，剖検でどのように解き明かされていくかがわかるようになっています．ただし臨床診断の限界が明らかになる例のほかに，病理では謎の解明ができなかった例，さらに剖検で新たな謎が見つかった例など，一筋縄ではいかない例を選んであります．剖検で明らかにしたいこと主治医が解き明かしたい「謎」を示した後，病理医が様々な臓器の所見を基にどのように謎に迫るのかの説明が続いています．それは「診断当てクイズ」ではなく，病理解剖で何がわかるのか，その範囲と限界を知り，剖検例からいかに学び，臨床力を高めることができるかを知っていただくのに役立つはずです．病理学を苦手とする読者でも，特別な基礎知識は必要ありません．病理所見の理解に必要な「正常対照」を載せてありますから，見比べるだけで自然に理解が深まるように配慮してあります．また各例で，臨床経過から考えられた病態のフローチャートと，剖検結果を元にしたフローチャートを対比できるように示してあります．それにより実例にそった病態関連図の組立て方を学ぶこともできるでしょう．

第Ⅰ章には，臨床研修医として遺族から病理解剖の許諾を得る立場になったときに役立つ知識を，平易なQ＆Aの形でまとめました．さらに第Ⅲ章では，遺族にとっての病理解剖の意義について触れています．これは，今まで医療の発展のためとばかり言われてきた病理解剖について，「遺族のための病理解剖」という新しい視点を示したものです．遺族の立場で病理解剖を考えることは，解剖の意義を知るだけでなく，遺族に病理解剖について話をするときにも，きっと役立つでしょう．そればかりではなく，一般の方々や，剖検を許諾された遺族の方々にも，この本を手に取っていただければと思っています．