発刊にあたって
臨床検査医学とは,血液,尿など生体成分を測定し,その検査データを科学的に分析することで,予防・臨床的な診断や治療方針決定の判断材料として提供する学問である。病気の診断・治療は太古の昔から行われており,長い間それは経験のみに基づくものであった。このような医療に科学的な色彩を導入したのが臨床検査である。ヨーロッパの有名な化学の指導者であるウプサラ大学のBerzelius の影響など臨床検査の誕生の背景にはいろいろあるが,臨床検査学体系確立の大きな要因の一つにFölling によるフェニルケトン尿症の解析がある。オスロの病院検査部所属の医師であったFölling は,知的障害の少女の尿からフェニルピルビン酸の結晶を見出し,フェニルアラニン代謝異常と病態との因果関係を明確にした。Fölling のこの仕事は,患者の血液や尿を分析することで病気の本態を突き止めることができる実例を示した点で意義がある。以後,病気の診断を経験に加えて臨床検査を用いることが行われるようになり,現在では,臨床検査データがないと,診断や治療指針決定に大きな支障が出るのが現実であり,医療における臨床検査医学の役割は大きくなってきた。
患者自身が訴える症状(主訴)は診断・治療にたいへん有効であるが,時に,客観性に欠けることがある。それに対して,科学的に分析された臨床検査データは客観的な指標として利用できるので,患者の診断や治療指針の決定にひろく用いられるようになっている。治療指針の決定や変更は検査結果の変動を参考にしてなされる。しかしながら,多くの要因が測定結果に影響を及ぼすので,それらを考慮せずに検査を行うと正しい検査が出来ない。このような影響因子としては,患者に投与されている薬物の影響などだけでなく,測定しようとする項目の生理的変動や測定法の違いなどがある。このように,測定結果に影響を与える様々な要因を検査前の注意事項(プレアナリティカル要因:preanalytical factors)と言う。これらの検査前の注意事項やそれに対する対策については,実際に検査を行っている臨床検査技師や臨床検査関係者は比較的良く認識しているが,医師や看護師には必ずしも充分な認識がない。このような注意をしないで,検体を検査部に提出したり,その結果を鵜呑みにして検査結果を解釈すると誤った診断や治療を行うことになる。
血液などの検査材料は,適切に採取され測定されないと検査結果の正しい解釈はできない。また,検査結果が同一個人であっても,おかれている状況で変動したり(個体内変動),個体差(個体間変動)があることは徐々に知られるようになってはきているものの,性別や年齢による違いなど非常に典型的なもの以外はまだ充分には認識されていない。
患者の状態を経過観察するときには,一連の検査結果の中から意味のある変化を見つけ、また,微妙な変動でも患者状態の変化を反映しているものであれば的確に認識し対処しなければならない。このためには,測定が精密で基準化されていることが大前提ではあるが,それだけでは不充分であり,検査結果に影響を及ぼす様々な要因を考慮して患者状態の変化を把握する必要がある。
測定結果に影響を及ぼす"検査前の注意事項"を整理して認識することは非常に大切である。本書は,そのような"検査前の注意事項"を取り上げ,何故にそのような注意をしなければならないのか,それらの注意を怠ったら,その結果,どのように検査データに影響が及ぼされるのかなどについて,系統的に整理し簡潔に纏め挙げている。医療関係者にとって大変役に立つ本である。また,2008 年4 月より,40 歳以上75 歳未満の方に対する「特定健診・特定保健指導」が義務づけられた。そこで,第7 章として「特定健診における検査前精度管理の在り方」を掲載したのでご活用頂きたい。
検査部や臨床検査に関係がある検査関係者は勿論のこと,多くの医療関係者がこの本を読まれることを願っている。
なお,本書は1996 年にWalter G. Guder, Sheshadori Narayanan, Hermann Wisser, BemdZawta 先生らが共同で出版された"Samples: From the Patient to the Laboratory"の翻訳本(正しい検査の仕方:検体採取から測定まで(訳:濱﨑直孝,濱﨑万穂))を参考にして,日本の臨床検査の専門の先生方に最新の情報をご執筆頂いた。また,本書刊行に際し,日本ベクトン・ディッキンソン株式会社およびBecton Dickinson and Company, USA の協力を得たことに謝意を表する。
平成20 年6 月
編者
濱﨑 直孝
高木 康